地域文化講座「アートから地域を考える4つのレッスン」。1月14日開催の第2回は、美術家の土谷享さんをゲストに招きました。
前回の講座で見えてきた、障がいのある人の表現活動を通じて立ち上がる、利用者と職員との「相互の関係性」。今回はその視点をさらに深め、「人と人の関係性をいかに生み出すか」をテーマに、対話を通じて探りました。
「自己表現」ではなく「関係性」をつくるアート
土谷さんが活動するユニット名「KOSUGE1-16」は、かつて住んでいた東京都葛飾区小菅の住所「小菅1丁目16番地」に由来します。この場所での生活こそが現在の活動の原点になったといいます。
美術教育では一般的に、アートは「自己表現」であると教えられます。自分の内面を深く掘り下げ、それを作品として形にする——。しかし土谷さんは、その手法に強い違和感を抱いていました。
「自分の内面を掘り下げろと言われても、正直あまり興味が持てなかったんです」
そんな折に始まったのが、小菅の風呂無し一軒家での暮らしでした。
ポストにおかず? “余計なお世話”が作る豊かさ
小菅の町には、現代社会では薄れつつある昔ながらの文化が息づいていました。
妻の地元から大量の野菜が届けば近所に配り、別の日には見知らぬおかずが家のポストに入っている。ちょっとした大工仕事が得意だと知られれば「ちょっと直してくれない?」と頼まれ、近所のおばちゃんが保護した子猫やアルバイトの情報を運んでくる。
「最初は戸惑いました。ポストにおかずが入っていて、テロかと思いましたから(笑)」と土谷さんは振り返ります。
しかし次第に、それは金銭的な損得勘定ではない「もちつもたれつ」の贈与の経済であることに気づきます。
「最初はおせっかいだと思ったんです。でも、その“余計なお世話”こそが生活を面白くしてくれていた。生活の面白さは、こうした関係性の中にあるんじゃないかと思ったんです」
美大で学んだ「個の表現」への違和感に対し、地域で生まれる濃密な関係性こそが、新しいアートのヒントになりました。

人が関わらざるを得ない「装置」をつくる
土谷さんは、こうした地域の関係性をアートとして可視化し、社会の中に持ち出す試みを始めます。その代表作の一つが、プレ・イマバリ・パラビエンナーレでも登場した、あの巨大な「巨大サッカーボードゲーム」です。
この作品は、一人では遊べないほど巨大に作られています。プレイするためには、その場に居合わせた知らない人同士が自然と声を掛け合い、協力しなければなりません。
2005年の横浜トリエンナーレでも注目を集めたこの作品シリーズの後継機は、金沢21世紀美術館にも収蔵されています。興味深いのは、美術館が収蔵したのが単なる「モノ」だけではないという点です。
- 専門業者を使わずに子どもを含む市民と組み立てる
- アドボードへのスポンサーを獲得する
- 集めた広告費で大会を開催する
こうした「プロセス」そのものが作品の本質として扱われています。
「見えているのは完成した装置だけ。でも本当に見せたいのは、その周りで起きている関係性なんです」と土谷さん。
「今は効率化が進み、“おせっかい”が減っています。でも、地域の本質はそこにある。誰かが少しだけ相手の領域に踏み込み、関わり合うことで、思いがけない豊かさが生まれるんです」
アートを、人が関わらざるを得ない「装置」として機能させる。それによって、現代社会で分断されがちな人と人のつながりを編み直していく。土谷さんの活動は、まさに「関係性のデザイン」そのものです。
祭りを「つくる」プロセスに宿る人の熱量
講座では、名古屋・長者町での祭りプロジェクトも紹介されました。
戦後、繊維問屋街として発展した長者町は、時代に合わせてアーケードを整備するなどアップデートを重ねてきました。しかし、古くからの住民が抱く「土地の記憶」と、新しく移り住んだ人々の間には、共有しえない歴史の断絶がありました。
そこで土谷さんが着目したのは、戦災で失われた「山車(だし)」の文化でした。しかし、目指したのは立派な復元品ではありません。住民と共に記憶を掘り起こし、迷いながら形にする「関わりながら育てていく場」そのもののデザインです。
制作過程では、長老たちからの反対や「重すぎて動かない」といったトラブルも相次ぎました。けれど、土谷さんはそのヒリヒリするような「未完の余白」こそが重要だと言います。整いすぎた完成品は人をただの観客にしてしまいますが、ままならない「余白」こそが、人々に当事者意識を宿らせるからです。
象徴的だったのは、プロジェクトの「終わり」です。山車は一度、制度上の理由で廃棄されました。しかし、共に汗を流してきた住民たちは黙っていませんでした。彼らは自発的に部材を拾い集め、勝手に再建。結果として、10年続く地域の祭りへと変貌を遂げたのです。
なぜ「続けること」だけでは、うまくいかないのか
土谷さんはフランスの哲学者ロジェ・カイヨワらの議論を引きながら、「遊び」を保ち続けるための新陳代謝について共有しました。
「遊びというのは、たとえば、掃除の時間がいつの間にか雑巾がけレースに変わるように、偶然の出来事に触発され、工夫が重なる「同調」の時間なんです」
しかし、うまくいった活動ほど「このまま続けよう」と形を固定したくなります。すると、活動は次第に偶然が起こる余白を失い、ルーティン(義務)へと変わり、後から参加する人が入り込む余地が消えてしまいます。
「だからこそ、あえて一度終わらせることが大切なんです」
一度終わらせて、新たな「参加のきっかけ(加入儀礼)」を作ってあげる。この「終わらせるデザイン」こそが、地域活動を硬直化させない秘訣だと指摘しました。

「役に立たない時間」が、人の尊厳を守る
この視点は、福祉の分野とも深く重なります。 支援の現場では、安全性や質を担保するために「ルーティン(有用性)」が求められます。それは生活を支える基盤として不可欠なものです。
しかし一方で、人は「意味のないこと(無用性)」に強く惹かれる存在でもあります。
目的もなく水たまりに足を入れたくなる衝動、何かにただ没頭する時間。土谷さんは、この「有用性」と「無用性」のあいだを往復することこそが、人の育ちや創造性を支えると語ります。
「『意味がないことをやってもいい』と許されることが、何より大事なんです」
福祉の現場に、アートという「装置」や「遊び」を持ち込むこと。 それは「支援する/される」という固定的な役割をシャッフルし、時には互いに迷惑をかけ、互いに助け合わざるを得ない「割り切れない関係性」を取り戻す試みでもあります。
土谷さんの活動は、アートが単なる鑑賞物ではなく、閉じかけた社会をひらく「装置」であることを教えてくれます。
私たちが勇気をもって今よりも少しだけおせっかいになり、誰かの領域に足を踏み入れたとき、地域や福祉の現場は、ともに生きるための豊かな「遊び場」へと変わっていくのかもしれません。
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