2025年12月、イマバリ・パラビエンナーレでの取り組みの一つ、地域文化講座「アートから地域を考える4つのレッスン」がスタートしました。この講座の目的は、モノやカタチに現れないアートの実践をとおして、地域で暮らす人々の関係性やケアのあり方、多様な価値観を尊重する地域社会を一緒に考えていくこと。ときにおもしろがり、ときに新たな発見を楽しみながら、私たちの日常を捉え直す試みです。
12月17日に開催した第1回のテーマは「アートとは何か?ケアとは何か?」。生活介護事業所において、制作などのアート的な表現を通じて地域社会との関係性をつくるユニークな実践をめぐり、多くの市民や福祉関係者が言葉を交わしました。当日の様子をレポートします。
「さんかくやま」の実践から考える、ともに生きるということ
今回の講座に登壇したのは、今治市内の生活介護事業所「さんかくやま」で生活支援員として働く青砥穂高さん。アートマネジメントや文化政策に精通する戸舘正史さんのファシリテーションのもと、アートとケアが結びつく、そのユニークな日常が語られました。
2023年に設立されたさんかくやまは、障害のある方が日中を過ごす事業所でありながら、どこか一般的な「福祉施設」のイメージを軽やかに飛び越えています。特徴の一つは、スタッフの多くが福祉未経験者であること。彼らのスタンスは、至ってシンプルです。
「決められた『作業』ではなく、一人ひとりのコンディションや得意なことを見つけて、一緒に過ごすこと」
アーティストとしての背景を持つスタッフの存在もあり、ここでは「創作」が特別なイベントではありません。誰かが絵を描けば、隣でそれを見つめる人がいる。気が向けば筆をとり、気が乗らなければただ笑って過ごす。ただ、意識していることがあるといいます。それは、「作っても作らなくてもいい」ということです。

「『作る人』の方が『作らない人』よりも偉い、みたいな空気になってしまうと、どうしても居心地が悪くなってしまう。だから、そこは並列にしたいんです。別に作ってもいいし、作らなくてもいい。何もしないままでいてもいいし、たまたま何かができあがっても、それでいい」
「これはアートだ、これはアートじゃない」と境界線を引くのではなく、日常の何気ない瞬間を面白がること。そのまなざしこそが、さんかくやまが捉える「アート」の本質です。
「ケアする/される」の境界線が溶けだすとき
講座の中で繰り返し語られたのは、「ケアは一方向ではない」という視点です。
例えば、あらゆる物をセロハンテープで巻くある利用者さんの行為が生んだ作品「窒息シリーズ」。その彼は一度始めると、2時間でも平気でラッピングに没頭するといいます。興味深いのは、この制作の裏側にスタッフの繊細な関わりがあり、「どちらの作品か分からない」ほど両者が関与しあっている点です。
「スタッフがリサイクルショップで『(テープを巻きつけると)おもろそうなもの』を探してきて、彼の前に置く。すると、彼はひたすらテープを巻きつけるんです。でも、テープを巻いても面白くならないものも実はたくさんあって。何を素材として選ぶかというスタッフのさじ加減が、『作品』の面白さに大きな影響を与えているんです。もはや、どっちの作品か分からないという状況が生まれているんですよね」
そうしているうちに「支援員と利用者」という肩書きを忘れ、むしろ「自分たちスタッフの方が、彼らの存在に支えられている」と感じる瞬間が訪れるといいます。
「日頃の関わり方でいえば、確かに僕らが『ケアをする』のが仕事です。そのなかで、ストレスを感じたり、傷ついたりする場面もある。でも不思議なことに、関わりから回復していく感覚もあるんです。何だかすごくいい体験をさせてもらっていて、自分たちの中のいろいろなものも、少しずつ回復していくんですよね。」
このエピソードを受けて、戸舘さんは「ケア」という言葉の固定観念を揺さぶります。
「スタッフが自らの表現欲求をそこに投影し、利用者さんがその「お題」に応える。あるいは、ただ目の前のものを巻くという行為の快楽に没頭する。そこでは、従来のような「ケアする側/される側」という境界線は、決壊しています。むしろ、利用者さんの表現に触れることで、スタッフ側の心が満たされ、ケアされている。そんな逆転現象すら起きている。それって、すごくいい関係ですよね」
また、制作は「言葉にならない声」を聴く手段にもなっています。
「普段、会話で意思疎通をすることが難しい利用者さんがいます。何に興味があるのか分からなかった彼が、絵を描くといつも『角(かど)』ばかりを狙って描くんです。それを見て初めて、『ああ、彼は部屋の隅っこに立つのが好きだったけれど、角という造形そのものが好きだったんだ』と気づかされる。作品を通じて、ようやく彼の世界を少しだけ覗かせてもらえるんです」

展覧会で挑戦した“関係性”の見える化
今年度、さんかくやまは久万高原町立久万美術館主催の2025年度久万美メッセで展覧会「のぼって おりて またのぼる アートと福祉のはざまで」を開催しました。
きっかけは、ある種のアクシデントに近い、「まつやまアートブックフェア2024」での出来事。

利用者さんによるユニークなイラスト集を販売しようとするも、準備が間に合わず。苦肉の策(?)として、利用者さんが自由奔放に書き込んだ本に「100万円」という大胆な値札を付けて販売していたところ、たまたま居合わせた久万美術館の学芸員の目に留まり、その後、展示のオファーへと繋がりました。
そこから大慌てで準備がスタート。ディスカッションを重ねる中で辿り着いたのは、完成された「作品」だけを並べるのではない、一風変わった展示構成でした。
利用者さんの作品とともに展示されたのは、スタッフのインタビューやさんかくやまでの日々の風景を収めた映像作品、スタッフが日々記録している業務日誌の抜粋など。
作品解説を最小限に抑え、一人ひとりの人柄や日常が伝わる構成にしたのは、「誰が、どんな関係性のなかで、その表現を紡いだのか」を立体的に浮かび上がらせたいという意図がありました。

さんかくやまの利用者さん全員が、いわゆる「アート活動」を日々の中心に据えているわけではありません。絵を描いたり、何かをつくったりすることが、特別な意味を持つ人もいれば、そうでない人もいます。それでも作品がそこに並ぶのは、何かしらの表現をそっと促すスタッフがいて、それにふと応じる利用者さんがいて、そんな時間が積み重なっているから。
展示されているのは、完成された“成果”というよりも、誰かと誰かが同じ場所で過ごした関係性そのものでした。
さらに興味深いのは、利用者の作品と、施設を訪れるスタッフやアーティストの作品をあえて混ぜて展示した試みです。
「自閉症という障害は、社会の中で他者とコミュニケーションを取りながら関係性を築くことが、すごく苦手な特性なんだと思います。でも、たとえそうであっても、そこには確かに『多様な関係性』が存在している。そのこと自体が、きっと豊かなことなんだろうなと思うんです」
「障害のある人のアート作品」として特別視するのではなく、あくまでさんかくやまという場所に集う人々の表現として、フラットに並べる。それは「多様な人間の表現が同時に存在する豊かさ」を社会に問いかける実践でもありました。
「こだわり」を否定せず、面白がる勇気
福祉の現場ではしばしば、「こだわりを許容しすぎると、その特性を強めてしまう」という慎重な意見も聞かれます。しかし、さんかくやまでは、「こだわり」を否定せず、面白がる勇気「こだわり」を排除すべき障害として見るのではなく、その人の人間性の一部として共有しています。
「誰かに多大な迷惑をかけない限り、僕らが面白いと思ったことはとことんやってもらう」
そうして「面白がる」姿勢から生まれた今回の展示は、思わぬ副産物を生みました。地元のカフェの店員さんが、展示を見たことで利用者たちの存在を知り、彼らを温かく迎えてくれるようになったのです。
「彼らが安心していられる場所が、もう一か所増えた」
青砥さんは、美術館という開かれた場所で展示をした意味を、そう振り返ります。
福祉施設の壁を超え、知らない誰かと偶然出会う。それが地域の人々のまなざしを少しずつ変え、障害の有無にかかわらず、誰もがこの街で自分らしく、居心地よく過ごせる「余白」を広げていくことにつながります。

「自分とは違う」を理由に排除してしまう社会で
講座の終盤、議論はさらに本質的な問いへと発展しました。会の主催者である来島会の三幡が、ある高校生との対話を紹介しました。「障害者は自分たちに迷惑をかける存在だから、隔離されたコミュニティで生活してほしい」。そんな、ストレートで排外主義的な言葉を突きつけられたといいます。
その共有をきっかけに、参加者がそれぞれ口を開きます。ある参加者の大学生は、自身の葛藤を明かします。
「その言葉をただ糾弾し、関係を断つのは簡単です。でも、それでは彼らはその考えの中に閉じこもったままになってしまう。同時に彼らの考えを排除するということそのものが、自分と違うものを退ける態度にも繋がりかねません」
「現代社会には、自分たちの余裕のなさから、異質なものを排除しようとする空気が充満しています。誰かを救うための仕組みが、巡り巡って別の誰かの権利を奪っていることもある。この世界のままならなさ、清濁併せ呑むような複雑さを、どうやって受け止めていけるのか。今の自分は、そのための『胆力』を養いたいと考えています」
他の参加者からも、切実な意見が寄せられました。

「『差別はしていないつもり』でも、その人の世界を知らないで生きていること自体が、もはや加害になっている可能性があるのではないか」
「知らないから、想像できない。想像できないから、強い言葉で排除してしまうのではないか」
その一つの解として、青砥さんはさんかくやまの日常の風景を紹介しました。
「僕たちは月に一度、みんなで街の喫茶店へ行きます。そこはごく普通の“街の喫茶店”。障害のある人も、たまたま居合わせた地元のお客さんも、同じ『客』として同じものを食べます。そこに特別な線引きはありません」
「できるだけ街に出て、みんなが普段食べているものを、同じように一緒に食べる。一見すると、それは「ケアらしいケア」には見えないかもしれません。でも僕は、こういう時間こそ大切だと思っているんです」
まずは同じ空間を共有し、同じものを「美味しい」と感じる。そんな些細な経験の積み重ねが、閉ざされた想像力の窓を開けていくのかもしれません。
分からなさが重なり合う場所として
「アートの役割は、当たり前を揺るがすことなんじゃないかなって」
会の最後、「アートとは何か?」を問われた青砥さんはそう話しました。その言葉通り、この日の講座は参加者それぞれの「当たり前」を激しく揺さぶるものとなりました。
一方向の支援ではなく、双方が影響し合い、変容し続ける。その流動的な関わりの中にこそ、「さんかくやま」という場所の「豊かさ」の正体があります。戸舘さんとの対話を通じて浮かび上がったのは、効率や管理を優先する福祉のあり方ではなく、目の前の人間をまるごと肯定する、どこまでも人間味に溢れたまなざしでした。
イマバリ・パラビエンナーレが目指しているのもまた、分からない相手を「やっかいな存在」として遠ざけるのではなく、アートというきっかけを通じて、その世界の「面白さ」に触れようとする態度です。「障害のある人/ない人」「支える人/支えられる人」といった固定的な役割を脱ぎ捨て、互いの“分からなさ”さえも面白がりながら関わりあうこと。その積み重ねが、互いの存在を肯定し合える土壌を、この地域に少しずつ耕していくのだと思います。
