「至れり尽くせり」の準備をやめて、まちの中にぽんと場を開いてみる。するとそこには、誰かに指示されるわけでもなく、自ら動き出す人たちの姿がありました。
秋に開催されたプレ・イマバリ・パラビエンナーレ。しかしその賑やかな風景の裏側で、主催である社会福祉法人来島会は、ある「矛盾」と向き合っていました。
本来、福祉施設は人を守る場所。けれど、整備された福祉制度と「良かれと思って」先回りする善意からの行動が、いつの間にか障がいのある人を施設の中に閉じ込め、本人の可能性を奪ってはいないか。
第一回イマフバリメフライビエンナこくビ(イマバリ・パラビエンナーレ)のガッチャンコ監督である美術家 土谷享さんと、事務局の社会福祉法人来島会の三幡大輔さんとの対話で見えてきたのは、支援がかえって本人の可能性を狭めてしまうという、福祉の現場に横たわるジレンマでした。
アートという「媒介」があることで、私たちはどうすればもっと自由に、自分らしくいられる場をつくれるのか。お二人の対話から、これからのケアのあり方をひも解きます。
「おもてなし」をやめたら、みんなが動き出した
土谷:
プレ・イマバリ・パラビエンナーレの場を振り返ると、想像以上に多くの人が主体的に関わり続けていたことが印象に残っています。
多くのイベントは、スタッフが「至れり尽くせり」の準備をして、地域の方やご家族は「お客さん」として招待されることが多いですよね。でもあの場では、そういう関係性とは明らかに違う空気が流れていました。
三幡:
そうですね。誰でも自由に立ち寄ることができる場所に飛び出したことの意味も大きかったと思います。
まちの中に場を開いたことで、福祉を知らない人たちとも自然に接点が生まれていました。アートがあることで、そこに立ち止まる理由ができていたように思います。
土谷:
犬の散歩中の人が「何これ?」と寄ってきたり、見ず知らずの子どもが率先して(笑)片付けを手伝い始めたり。作品を見て「かわいい」「わくわくする」と直感的に反応してくれたりする。
アートが「きっかけ」になって、支える側・支えられる側、用意する側・参加する側という壁が消え、みんなが「自分の場所」として動いていた。あの日、そこにあったアートは、完成された「作品」というよりも、人と人の間に関係を生み出す「媒介」として機能していたように思います。
三幡:
一方で、僕の立場から見ると、手応えと同時に大きな課題も突きつけられました。正直に言うと、来島会の中でも、まだ全員がかかわりをもっているわけではありません。あの場に流れていた空気を、もっと多くの職員に体感してもらえたらよかったですね。
土谷:
現場からすれば「ただでさえ忙しいのに、なぜ余計な仕事を増やすのか」という本音もありますよね。
三幡:
「安全に支援や介護をすること」が絶対の仕事である現場にとって、アートプロジェクトは、どうしても「余裕がある時にやるプラスアルファ」に見えてしまう。
本来は支援そのものといっても過言ではないはずの試みが、余計な仕事と天秤にかけられてしまう。

「マニュアル人間」を作ってしまう制度の罠
土谷:
なぜ現場がこれほど「余裕」を失っているのか。
この20〜30年で、日本の福祉制度はサービスの枠組みや運営のルールが整備され、福祉事業としての「安定性」も高まった。それ自体は大きな前進です。
ただその一方で、気がつけば「誰のための支援なのか」を考えるよりも、「制度通りに運営できているか」を確認することが、仕事の中心になってしまう。そうしていつの間にか本質を見失い、制度そのものが福祉であるかのように扱われていく。
三幡:
おっしゃる通りです。許認可事業である社会福祉事業や社会福祉法人の世界では「ルールを忠実に守ること」が正解とされてきました。逆に、前例のない新しいことをすると厳しくチェックされる。
新人の頃から、まずは「マニュアル通りに動くこと」「想定外をつくらないこと」を徹底して教えられる。するとどうしても「決められた範囲の中で仕事をする」という感覚が身についていきます。

土谷:
そうした経験を積み重ねてきた職員の皆さんにとって、「マニュアルにないことを自分で判断して動く」という感覚を持つのは、決して簡単なことではないと思います。
三幡:
むしろ、何か新しいことをしようとしたときに最初に浮かぶのは、「それは制度上大丈夫なのか」「もし何か起きたらどうするのか」といった不安です。
そうした心理が積み重なっていくと、次第に「考えて挑戦する」よりも、「決められたことを確実にこなす」方が大事だという空気が現場に広がっていく。
「良かれと思って」が、本人の彩を奪う
土谷:
これは意識しないと誰もがやってしまいそうなことなんですが、善意のサポートが、ときに本人の意思や表現を、知らず知らずのうちに奪ってしまうことがあります。
三幡:
相手を大切に思うがゆえに生まれる「失敗させたくない」という愛情ですね。
土谷:
障がい者と接するアート活動の場面でも、親御さんがとても熱心に伴走されるケースがあります。けれど、色を選ぶのも、絵の具を出すのも、構図を決めるのもすべて親御さんだったとしたら、または支援者だとしたら、それは果たして「本人の自己表現」と言えるでしょうか。
善意であっても、先回りして一方的な正解を与え続けてしまうと、その人が本来持っている可能性の芽を、知らず知らずのうちに摘んでしまうことにもなりかねません。

三幡:
福祉で「安全・安心」は絶対と思い込まれています。でも、究極の安全を求めると、行き着く先は「何もしないこと(閉じ込めておくこと)」になってしまう。何も挑戦させなければ失敗は起きませんが、その代わりに人生の彩も失われてしまいます。
本来、支援というのは「成功を100%保証すること」ではないはずなんですよね。むしろ、失敗も含めたさまざまな経験を支える営みだと思います。
土谷:
そう考えると、アートとは、誰かの真似事ではいけないんで。指示されて作ったり、上手に真似したら、それが失敗。社会って多様で多面的ですから、本人が得意なことを見つけたら、そこから社会が開いていく、ということだってできると思うんです。
