聞き手・構成:小林 友紀(合同会社企画百貨)
「カチッと固定しちゃダメなんですよ。身体も、楽器も」
音をそろえる。動きをそろえる。形をそろえる。
その安心感と引き換えに、私たちは一人ひとりの身体が持っているしなやかさや、思いがけない表現の「自由さ」を置き去りにしてしまっているのかもしれません。
音楽家の片岡祐介さんが「純セレブスピーカー」づくりや、障がいのある人たちとの音楽活動を通じて取り組んできたのは、まさにこうした現代の凝り固まった「当たり前」に対する、軽やかな問いかけです。
段ボールにスピーカーを取り付け、箱の中にはクシャクシャの紙を詰める。あえて固定しすぎず、整えすぎない。そんな一見「適当」にも見えるつくり方から、驚くほど豊かな音が生まれる。
それは、楽器の話だけではありません。私たち自身の身体も、表現も、人との関わりも、すべてを「きちんと」整えようとしなくていいのではないか。
今回は、片岡さんが音と身体の対話を通して見つめてきた「自由さ」から、違いのある一人ひとりがともに生きる社会について考えていきます。

片岡 祐介(かたおか ゆうすけ)音楽家
スタジオミュージシャンを経て、様々な場所で即興音楽セッションを行っている。2006 年度にはNHK 教育のエキセントリックな音楽番組「あいのて」に「黄色のあいのてさん」としてレギュラー出演、反響を呼び、現在も人気を博す。
音楽家の身体で作る「適当」で「動く」スピーカー
——今回開催された「純セレブスピーカーづくり」のワークショップでは、段ボールなど簡単な材料にもかかわらず、驚くほど豊かな音が響いていたのが印象的でした。
「音楽家の身体感覚のままスピーカーを作ったらどうなるだろう」。そんな発想から生まれたのが、この「純セレブスピーカー」なんです。
実はこのスピーカーの誕生には、偶然のきっかけがありまして。2018年に研究者の安冨歩さんが車を買い替えた際、取り外した純正のカーステレオ用スピーカーユニットを「捨てるのはもったいないから」と持ち帰ってきたんです。
電子工作の知識があった僕に「これ要らない?」と連絡が来たんですが、僕は「今は要りません」と。そうしたら安冨さんから「アンプに繋げば音は出るの?」と聞かれたので、「プラスとマイナスを繋いで、ダンボール箱に穴を開けて差し込めば簡単に作れますよ」とアドリブでアドバイスしたんです。
僕自身、ダンボールでスピーカーを作った経験は一度もありませんでした。でも打楽器奏者としての長年の勘で「ダンボールは音響特性が良い」と直感的に知っていたんです。
ただ、ダンボール箱のまま鳴らすと空洞で余計な響き(箱鳴り)が生まれて「雑味のある音」になってしまう。そこで「箱の中にクシャクシャにした紙を詰めてください。特定の音だけが強調されるのを防ぐために、できるだけ色々な種類の紙を混ぜて」と追加で伝えました。
すると、その日のうちにすべて試した安冨さんから「すごい良い音がする!」と興奮気味のメールが届いて。後日、実際に聴かせてもらって本当に腰を抜かしました。
——スピーカーと聞いて普段イメージする「オーディオ機器」とは、かなりかけ離れた発想ですね。
普通は「しっかり緻密に、固定しなきゃダメだ」って思いますよね。均質なものを大量生産するスタンダードな工業製品の考え方です。でも、このスピーカーはあえて構造を決め込まず、固定もしない。余計な手を入れすぎずに「放っておく」方が、むしろ良い音がするんです。
そもそも、楽器を演奏するときの身体って、どこもカチッと固定しちゃダメなんですよ。見た目は止まっているように見えても常に動いていて、指先まで血が通い続けていないと、生きた音は出ない。
例えばトライアングルを叩くとき、バチを持つ方の右手ばかり注目されますが、実は「楽器をぶら下げている左手」が固まりがちなんです。スタンドの代わりになろうとして手をカチッと固定してしまう。でもそれじゃダメで、持っている方の手も固めず、常に踊らせておく。そうすることで初めて、音楽は生き生きと動き出し、空間を響かせ始めるんです。

”デタラメ叩き”から始まった「音」への好奇心
——お話を伺うと、どこか身体の根本にある原始的な感覚で音に向き合われているように感じます。そもそも、片岡さんが「音」に強い関心を持つようになった原点はどこにあるのでしょうか。
小学4年生くらいの頃、テレビで現代音楽のパフォーマンスを見たのが最初でした。マリンバ(大型の木琴)を弾いている人がいたんですが、当時の僕は現代音楽というジャンルを知らないから、「デタラメを叩いているだけじゃないか」と思ったんです(笑)
でも、それがなんだかすごく格好良かった。「デタラメを叩いてテレビに出られるなら、自分にもできそうだ!」と思ったんですよね。
お年玉をはたいて卓上木琴を買いました。でも、もっと低い音や高い音が欲しくなるからコップに水を張って並べたり、マリンバみたいに響かせたくて木琴の下に缶を置いてみたり。ないから工夫して作る、ということを自然とやっていましたね。
——その後は本格的に音楽の道を歩まれ、音大へと進学されます。アカデミックな学校教育の中で、ご自身の身体感覚とのギャップや違和感はありませんでしたか?
僕の場合はデタラメ弾きからスタートしているので、楽譜(五線譜)の読み書きは後から独学で覚えたんです。でも、それが拍子抜けするくらい簡単で。「え、たったこれだけのルールなの?」って思いましたね。日常会話を完璧に喋れるようになってから文字を覚えるような感覚だったので、まさに「音楽ネイティブ」だったわけです。
一方で、学校教育という枠組みの中では違和感だらけだったと思いますし、周りから見たら僕自身が相当へんてこな学生だったんじゃないかな(笑)。そもそも小さい頃から、いわゆる「みんなで揃えて歌いましょう」とか、運動会で「このリズムに合わせて歩きなさい」というような音楽は嫌いだったんです。自分の主体性を奪われて整列させられるような、妙な気持ち悪さを感じていて。
だからアンサンブルの授業でチャイコフスキーを演奏したときも、小太鼓のパート譜に書いていないリズムを勝手にアレンジして叩いてみたりして。そうしたら指揮をしている先生が、目を丸くしてこちらを見ていて。「あ、楽譜に書いてあることしかやっちゃダメなんだ」とその時初めて知る、というレベルの噛み合わなさでした。
クラシックの型にはどこか馴染みきれなかったんですが、そのうち先輩のつてで映画音楽やCMソング、歌謡曲のバックで叩くプロの現場に入り始めるようになると、「もうこれでプロになれたな」と思って大学は中退したんです。
スタジオミュージシャンの世界だと、クラシック出身者は「アドリブが利かない」「融通が利かない」と見られがちなんですが、僕はデタラメ叩き出身だったのでアドリブも自由にできた。それが新鮮で、最初はすごく楽しかったんです。大型のミキサーがあるスタジオにいるだけで格好いいなと思っていました。
居酒屋で流れた自分の音に感じた虚しさ
——プロとして第一線で演奏を重ねる中で、今の活動に至る転機はどこにあったのでしょうか?
商業音楽の録音って、悪い意味で”効率的”な「多重録音」なんです。まずドラムとベースを入れて、次にキーボード、パーカッション……と順番に重ねていき、最後に歌手が歌う。スタジオ入りの時間も区切られていて、顔も合わせたことがないミュージシャン同士が音だけを重ねていく。そんな働き方を続けているうちに、すごく”消費されている”感覚が生まれて、自分が一体何を作っているのか分からなくなってしまったんです。
そんな頃、一人で居酒屋で飲んでいたらJ-POPが流れてきたんです。「ん?この聴き覚えのあるパーカッション、俺だ……」って、完成形を見届ける前にスタジオから帰され、歌のメロディーすら把握してなかった曲を居酒屋でたまたま聴く。その虚しさにちょっと泣けてきちゃって。「自分は何のためにミュージシャンになったんだろう」「子どもの頃、空き缶を並べて音を出してワクワクしていたあの気持ちはどこへ行ってしまったんだろう」と。完全にやさぐれていました。
——その虚しさが、ご自身の原点に立ち返る一つの転機になった。
そうですね。スタジオの仕事の真逆をやろうと思って、たまに行うライブでお客さんに打楽器を配って「一緒にやりませんか」と巻き込むようなことを始めました。深く考えずにやったことですが、みんなで一緒に手拍子をして音を鳴らす原体験のようなものに触れたかったんだと思います。
そのライブをたまたま見ていた音楽療法機関の所長に、「うちに研究員として来ないか」と声をかけていただいたんです。そこでの3年間で、僕の身体は完全に「書き換わり」ました。
クラシックの訓練やプロとしての演奏には、特定の「型」や身のこなしがありました。でも、障害のある子どもたちや利用者さんと一緒に音を出すと、全く予想もつかない表現が跳んでくるんです。
身体をすごい緊張させてバチをギュッと握り締め、力任せにドカン!と叩く子。飛び跳ねながらたまにコンと鳴らす子。ほとんど動かないのに、ふとした瞬間にチリンと美しい音を鳴らす子。
「うわぁ、音の出し方ってこんなに無限にあるんだ」「この目の前の人の表現に対して、自分は一体どんな音を一緒に鳴らせるだろうか」と模索し始めたんです。
まずは相手の身体の力の入り方、息遣い、テンションをまるごとコピーしてみる。憑依するレベルで同調してみるんです。そうすると、固く閉ざしていた空気がふっと溶けて、お互いの交わりが生まれる。相手の周波数に自分を合わせることができて初めて、音の交信が成り立つんです。その即興感に面白さを感じて、気が付いたら夢中になっていましたね。
「心が動いたら、それはもう音楽」
——今回のイマバリ・パラビエンナーレでも、来島会の施設ご利用者様や子どもたちを巻き込んだ仕掛けが始まっています。
「ふきあげワークス」では、毎週の「アートの時間」に僕がこっそり楽器を持って侵入するところから始まりました(笑)。絵を描いている人の横で勝手に楽器を吹き鳴らしたり、渡してみたり。そうしたら、絵を描きながら管楽器を吹く人が現れたりしてすごく面白かった。
一般的には「知的障害のある人には決まったルーティンが必要だ」と言われがちですが、彼らはものすごく順応性が高くて自由です。僕が何か音を出せば乗ってくれるし、誰かのアクションで音楽の展開がどんどん変わっていく。むしろ、型に縛られた健常者の大人の方が「勝手に変えていいのかな」と躊躇してしまうんじゃないでしょうか。
身体が書き換わる前の僕は「自分はいっぱしのミュージシャンだ」と思っていましたが、彼らの独特な身のこなしや音の出し方を真似しようとしても絶対にできない。そう考えると、どちらが優れているとか劣っているとかいう話ではなくて、単に人間が持つ表現の幅の違いなんだと気づかされます。

——片岡さんにとって、改めて「音楽」とはどのような存在でしょうか。
これは僕の尊敬する小学校の先生が言っていた言葉なんですが、「音を聴いて、心が動いたら、それはもう音楽だ」と。これだけでいいんだと言われて、ハッとしたんです。
よく考えたらモーツァルトだって何だってそうですよね。演奏する側が「これが素晴らしい音楽だ、聴け」と押し付けるのは高慢な話で、それを受け取る人の心がどう動くかが全てなんです。赤ちゃんの泣き声だって、他人にはうるさく聞こえても、お母さんにとっては愛おしい音楽になる。受け手が存在して心が動いた瞬間に、音楽は完成するんです。
「ふきあげワークス」とのプロジェクトでは、今後はみんなでスマートフォンを持って、施設内や日常の「好きな音」「心が動く音」を録音して集めてみようかと考えています。集まった音と、今回のスピーカーが合わさったらどうなるか。開けてびっくり玉手箱ですが、面白くなることは間違いないと思っています。

ーーーーーーーーーーーーーーー
「世の中全体が、もっとゆるくなるといい」
取材の最後に、片岡さんはそう語ってくれました。効率や正確さ、安定ばかりが求められる現代社会において、私たちは知らず知らずのうちに自分自身の身体や思考を「カチカチの型」にはめ込んでしまっているのかもしれません。
片岡さんが鳴らす音や、型に囚われないしなやかなアプローチは、そんな緊張した身体を優しくほどいてくれます。「カチカチに固定しなくてもいい」「上手くやろうとしなくてもいい」。
目の前の音に静かに耳を澄ませ、自分の身体をふっと踊らせてみる。そんなささやかな脱力から、自分らしい豊かな時間が始まるのかもしれません。
聞き手・構成:小林 友紀(合同会社企画百貨)
アート、表現、暮らし、食、教育などに興味関心を広げながら、今治を拠点に執筆や広報の仕事をしています。
