「良かれと思って」が、本人の彩を奪う。マニュアルと善意の罠から、ケアをとり戻すために/美術家・土谷享さんとの対話【後編】

「至れり尽くせり」の準備をやめて、まちの中にぽんと場を開いてみる。するとそこには、誰かに指示されるわけでもなく、自ら動き出す人たちの姿がありました。
2025年秋に開催されたプレ・イマバリ・パラビエンナーレ。しかしその賑やかな風景の裏側で、主催である社会福祉法人来島会は、ある「矛盾」と向き合っていました。本来、施設は人を守る場所。けれど、整いすぎたマニュアルと「良かれと思って」先回りする善意が、いつの間にか本人の可能性を奪い、施設の中に閉じ込めてはいないか。

社会福祉法人来島会の三幡大輔さんと、美術家の土谷享さんの対話で見えてきたのは、支援がかえって本人の可能性を狭めてしまうという、福祉の現場に横たわるジレンマでした。アートという「媒介」があることで、私たちはどうすればもっと自由に、自分らしくいられる場をつくれるのか。お二人の対話から、これからのケアのあり方をひも解きます。

前編はこちら:「失敗させないこと」は正解か? アートを媒介に問い直す、支援者と当事者の新しい関係性/美術家・土谷享さんとの対話【前編】

「自立」とは、頼れる先を増やすこと

三幡:
福祉の歴史を振り返ると、かつて入所施設は「障がいのある人を守るための砦」でした。しかし、その「守る」という意識が純粋であればあるほど、副作用も生まれました。支援する側が、本人が自分で選び、失敗し、挑戦する機会を、無意識のうちに奪ってきてしまった側面は否定できません。

土谷:
いま、支援者の方は「本人」と「社会」の境界線に立っていますよね。でも、ふと立ち止まって考えてみてほしいんです。なぜ、本人はその境界線に直接立つことが許されないのでしょうか。
支援者が良質な「フィルター」になりすぎるあまり、本人の世界をそのフィルター越しにしか見せないようにしていないか。「誰かが代わりに選ぶのが当たり前」という今の構造そのものを、一度、健全に疑ってみる必要がある時期に来ているのだと思います。

三幡:
まさに、支援する側の私たちこそが、その立ち位置を問い直さなければならないと感じています。

土谷:
制度はもちろん大切です。ただ、それと同じくらい重要なのが、人と人とのつながり、いわば「関係資本」だと思います。「自立=一人で生きること」と思われがちですが、実際には真逆だと思うんです。自立とは「頼れる先を増やすこと」に他なりません。
一人の支援者にすべてを委ねるのではなく、社会の中に頼れる網の目を広げていく。それは、人とも限りません。バリアフリーだったり、あるいはバリアーだったり、好きな景色、趣味、そしてその先にまた人との繋がりができたり、その「つながりの数」や「頼り先の多様さ」こそが、制度がカバーしきれない隙間を埋める、本当の意味でのセーフティネットになるはずです。

三幡:
私たちが直面している「親亡き後問題」の本質も、実はそこにあります。親御さんや特定の施設だけが支えを一手に担う「孤立した依存」は、とても危ういものです。その唯一の支えが揺らいだ瞬間、本人の生活のすべてが崩壊してしまう。
だからこそ、社会の中に関係を分散させていくことが、何よりの危機管理であり、何より本人の人生を彩り豊かなものにしていくのだと確信しています。

次の30年のための「基本ソフト(OS)」を書き換える

土谷:
僕は、社会にはだいたい30年周期のバイオリズムがあると思っています。家族でも組織でも、30年ほど経つとプレーヤーが入れ替わる。世代が変わり、価値観も少しずつ更新されていきます。
そのときに重要になるのが、その周期の最初にどんな「初期値」を入れるのかということです。
30年前に設定された「私たちが施設の中で、一生責任をもって面倒を見る」という初期値は、当時の社会では誠実な形でした。

三幡:
30年前来島会を創業した亡き越智一博前理事長のその熱意は、今も大切に引き継いでいます。
ですがいまや、社会にはいわゆる障がい者や高齢者だけでなく、LGBTQ、外国籍、貧困など、多様な生きづらさが定義され、謳われています。しかし、それらすべてに完璧な支援を届けるだけの資源は、どこにも存在しません。特定の領域だけで資源を囲い込むことに限界を迎えている今、私たちは、より「開かれた福祉」のあり方を模索すべき時に来ています。

土谷:
過去を否定するのではなく、今の時代に合わせて「福祉のOS(基本ソフト)」をアップデートする時期に来ているんだと思います。
これからの福祉職員に求められるのは、施設の中にこもることだけではありません。地域にひょいと飛び出して、新しい「つながり」をつくることも必要です。
しかし30年間そこで過ごしている人やそこで働いてる人もいるので一足飛びにはいかないでしょう。けれど、従来型のケアワークをしっかり守りながら、同時に社会との接点を作っていくという「ダブルスタンダード」のような矛盾をあえて引き受けながら進んでいくことこそが、まずは現実的で、かつ誠実な一歩になるのではないでしょうか。

アートは福祉を捉え直す「揺り戻し」の装置

三幡:
結局のところ、私たちが立ち返るべきなのは「福祉の原点」なのだと思います。それはすべての人がこの社会の中でより良く生きていくための営みを支えること。
その本質を手放さないまま、これからの社会とどんな新しい関係を結んでいけるのか。イマバリ・パラビエンナーレのような、まちを舞台にした試みは、その新しいOSを起動させるための大切なマザーボード(基盤)なのだと感じています。

土谷
もともとアートという営みは、どんな肩書きや属性の人であっても参加できる「余白」を孕んだ、究極にインクルーシブなもの。アートや祭りは、人と人を予想もしない形でつなげます。そういう意味では、アートは「作品」を示すだけではなく、社会の空気をかき混ぜる「運動」という面もあると思うんです。
いま、福祉に限らず社会全体で効率や安全ばかりが優先され、いつの間にか「人間」という生身の本質が置き去りにされ始めています。そこにアートという、マニュアル化できないものをあえて投げ込んでみる。
それによって、福祉と社会の関係をもう一度、割り切れない「人間の営み」へと揺り戻していく。それこそが、今回のプロジェクトが持つ本当の価値だと思っています。

三幡:
これは利用者や地域の方だけでなく、私たちにとっても同じです。自分の感性を動かして、目の前の人とどう向き合うか、自分で試行錯誤すると決める。そんな「わちゃわちゃした当事者意識」を私たち一人ひとりが取り戻す。そのプロセスにこそ、私たちがこのイマバリ・パラビエンナーレに取り組む意義があると考えています。