書き手:戸舘正史
社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修/アートマネジメント・文化政策
物価高のご時勢にあって美術館や映画館、演劇やコンサートの入場料も、おいそれと足を運ぶのを躊躇するくらい値上がりしています。かつてはストライクゾーンを拡げてどんなボールでも打ちにいくように、自分の好みではないものも知らないものもなんでも観に行っていましたが、いまはかなり的を絞るようになってしまいました。見逃したボールの中には珠玉もあるでしょうから悔やまれますけど、映画が2000円、美術館の企画展も2000円は下らなくなることも増え、小劇場演劇であっても最低4000円となると、そこそこのものは見逃すほかありません。外でお酒を飲む機会はかなり減らしましたが、わたしにとって展覧会や演劇を我慢することのほうが精神的なダメージは大きくとてもひもじい思いがします。相当に文化芸術に入れあげている人間であっても諦めるのですから、さほど興味のない人が観劇や鑑賞に大枚をはたくことなどちょっと想像できません。アートの受容と需要はいよいよ専らアッパークラスが担うようになっていくのでしょうか。
二十年以上前に出版された平田オリザ氏の著書『芸術立国論』(集英社新書)のなかで提唱されていた芸術保険制度というアイディアがあります。健康保険のように国民が文化を均しく享受する機会を保障する制度で、その根拠を日本国憲法の25条(「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)に求めました。もちろんこの提案は実現していません。しかし日本国憲法25条に誰もが文化を均しく享受する権利=「文化権」を認めようとする議論や研究は近年盛んになりつつあります。ここで言う「文化」は美術とか演劇とか狭い芸術領域だけを指すものではありませんが、先に述べた鑑賞に伴う経済的な負担を制度が均していくということもまた確かに「文化権」を保障することでもあります。
誰もが文化芸術を享受するとは鑑賞に限った話ではありませんが、昨今とりわけ注目されているのが障害の有無や年齢、言語や国籍等に関係なく誰もが文化芸術を鑑賞したり参加したりすることができるための環境づくり、すなわちアクセシビリティへの配慮です。鑑賞にあたって障壁となっていた要素を可能な限り取り払い、上演や展示の情報を誰もが同じように理解し享受できるためのアプローチが様々な方法で施されています。とりわけ障害者の鑑賞と参加を想定した技術や方法論の開発は加速度的に進化し業界の中で広く共有されるようになってきました。しかし一方で、経済的な理由や家庭環境が理由となって鑑賞や参加から遠ざけられている人たちのアクセシビリティについてはまだまだ後れを取っています。この点はインクルーシブの文脈で扱われるべきものとも言えますが、いずれにしても経済的な困窮や格差に対する美術館や劇場のアクションに目を引くものがないのもまた事実です。
例えば従来から入場料に関してはシルバー割引、学生割引、アンダー29割引などはありますが、これらの割引の根拠はこの三十年くらいで揺らいでいることは間違いないでしょう。ほんとうに経済的な支援が必要なひとへのアプローチになっているとは到底思えません。もちろん入場料の負担軽減だけが格差是正に有効なわけではありません。例えば美術館や劇場による「アウトリーチ」は盛んに行なわれていますが、果たしてそれらは経済的格差を起因とする文化的格差の是正にどのくらい寄与しているのでしょうか。
この数年、日本では子どもの習い事や文化的な体験の格差に関する問題意識の高まりを受け、一部の自治体では子どもの習い事の費用を自治体が支給する政策などが始まりつつあります。文化芸術界隈におけるアクセシビリティへの配慮の隆盛は素晴らしいことですが、これだけ経済的格差が広がる社会状況においては経済的アクセシビリティに対しても同様の配慮と具体策を講じることが求められます。最後に文化芸術基本法の一文をご紹介しておきます。
「文化芸術に関する施策の推進に当たっては、文化芸術を創造し、享受することが人々の生まれながらの権利であることにかんがみ、国民がその年齢、障害の有無、経済的な状況又は居住する地域にかかわらず等しく、文化芸術を鑑賞し、これに参加し、又はこれを創造することができるような環境の整備が図られなければならない。」
(文化芸術基本法 第2条第3項)
この法律に「文化権」の精神が反映されていることはもう少し多くの人に知られてよいかもしれません。

戸舘 正史(とだて まさふみ)
専門はアートマネジメント、文化政策。市民主体による自治的な文化活動を展開するための制度設計や中間支援、ワークショップの企画やファシリテーションなどを手掛ける。四国学院大学、愛知大学、青山学院大学、各非常勤講師。社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修。共著に『芸術と環境 劇場制度・国際交流・文化政策』(論創社)、『アートはいつ〈アート〉になるのか アート化とは何か』(水曜社)等。
