書き手:戸舘正史
社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修/アートマネジメント・文化政策
今夏、わたしは子どもたちの遊び場を作るプロジェクトにかかりっきりです。ミュージアムというコンセプトを掲げ、段ボールで造形をし、遊ぶことのできる状況を子どもたち自身で作っていくプログラムは、可能な限り子どもたちが選ぶことのできる選択肢と環境と大人のサポートを場に設定しているだけのシンプルなものです。かなり自由に物理的にも精神的にも解放できる場になっているので、学校など集団でうまく立ち振る舞うことのできない特性を持つ子どもたちも遊びに来ています。何をしてよいか不安であったり、子ども同士の衝突があったりしたとき、大人のする仕事はその子と状況あるいは子ども同士の関係をチューニングするだけです。「これはどう?」「そうか、それはいやなんだね」と会話をしながら子どもたち自身で調整できる目盛りにツマミをちょっと動かすくらいのことです。そんな日々を送っているなかで、そういえばこういう態度というのは、にわかに「合理的配慮」というやつを発動していることでもあるのかなと考えたりしました。なぜなら結果的に、子どもたちが日々奪われがちな「選ぶことのできる権利」を復権しようとしているからです。

「合理的配慮」という考え方は主に障害者福祉の文脈で多く使われるものですが、本来的には法的な権利や義務を表すものです。しかしこの用語の日本での訳語の不正確さやその概念の受容のされ方については、多くの研究者や当事者によって問題が指摘され続けています。この概念が日本に紹介される契機となった国連の障害者権利条約(2014年に日本は批准)ではResonable Accommodaitionが「合理的配慮」にあたる原語です。直訳すると「妥当な調整」といったところでしょうか。「合理的配慮」と訳されたことについては、日本が条約を批准する前後においても、慈善の施し感や上から目線の支援のようなニュアンスを批判する声が多くありました。最近では芥川賞作家の市川沙央さんが「環境を均すための権利であり義務である」として「合理的調整」に変えるべきと主張していたことが記憶に新しいところです。あくまでも本来の意味は、無理なく可能な限り制度や環境を調整していくということです。例えば、美術を鑑賞したい視覚障害者と美術館が双方の求めるものや制約について共有していく過程を経て、美術館が実現できる範囲で鑑賞が可能になるように展示方法や鑑賞にあたってのサポートの仕方などを調整していくということです。そして、実現できる範囲の可能性を探っていくときに、鑑賞する権利を奪われている当事者とどのくらい対話をして、どのくらいその立場に拠ることができるかどうかが「合理的配慮」の深度を測る試金石になります。
「合理的配慮」否、「合理的調整」という考え方は、マジョリティに根差した制度や環境を調整していくことであり義務であると同時に、権利を奪われている人たちの権利を取り戻すための態度でもあります(そう考えると障害者福祉の文脈だけの概念でもありません)。そして、取り戻そうとする主体はマジョリティ側も担うべきでしょう。生活保護受給者を「さもしい人たち」と称する人が国会にいるこの国では、マイノリティ主体の権利主張は「特権」であるとする矢がたちまち飛んでくるのですから。

戸舘 正史(とだて まさふみ)
専門はアートマネジメント、文化政策。市民主体による自治的な文化活動を展開するための制度設計や中間支援、ワークショップの企画やファシリテーションなどを手掛ける。四国学院大学、愛知大学、青山学院大学、各非常勤講師。社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修。共著に『芸術と環境 劇場制度・国際交流・文化政策』(論創社)、『アートはいつ〈アート〉になるのか アート化とは何か』(水曜社)等。
