書き手:戸舘正史
社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修/アートマネジメント・文化政策
15年くらい前にアーティストたちと空き家を私設の公民館にして運営するというアートプロジェクトをしたことがありました。ボロボロの家を市民たちとアーティストが一緒になって綺麗にして、一か月ちょっとの間だけ期間限定で開館したのです。手芸教室、演劇公演、喫茶店の営業など様々なイベントが行われ、連日放課後の時間は小学生たちの遊び場にもなりました。このプロジェクトは公立文化施設の事業として実施したものだったのですが、ある時、市役所からクレームが入りました。曰く「公民館」と名乗ることを止めろというのです。私設であっても混乱を招くというのがその理由です。つまりここで市役所が前提としている「公民館」は社会教育法に基づく公設の「公民館」です。一方で社会教育法は公民館類似施設として地域の集会所のような私設の「自治的公民館」の存在を認めています。このアートプロジェクトにおける市役所のクレームは後者の認識が抜けているようにも思えますが、「自治的公民館」であっても社会教育法上で規定されている公設の「公民館」に求める役割を行政自治体から委託されるケースがあるので、そのあたりとの整合性をつけるためのクレームであったと推察できます。
結局この件は法律や条例上の問題を抱えるわけでもなく事なきを得ましたが、社会福祉法人来島会が今治市内にオープンさせる予定の私設公民館ガッチャンコの場所は、本家本元の公設公民館の目の前なので一抹の不安と共に過去のエピソードを思い出した次第です。名前がガッチャンコとふざけているので多分大丈夫でしょうけど。

戦後、公設の「公民館」は民主主義を推し進め社会に定着させていくための砦として出発しました。市民は主権者であり民主主義を学ぶ主体であると明確に位置づけられているのです。つまり「公民」とは公共的な民主主義社会を担う市民を指します。現在も各地の公民館活動は、地域差はあるものの盛んに行われています。しかし戦後の民主主義の希望が満ち満ちていた時と比べると、現在では私たちの公民館への認識や期待はそれほどのものではないかもしれません。何より私たちは今、学ぶことや集まること、参加することのできる場所や機会が、物理的にもヴァーチャル空間にも、そこかしこにある時代に生きています。そして昨今は「公」に対して「私」の領域が拡大する一方で、「公」も「私」も、本来それらの間にある「共」としてのコモンズ的なあり方や考え方を利用しているとも浸食しているとも言える状況にあります。
ここではコモンズを論じるようなことはしませんが、私設公民館ガッチャンコでは、「公」も「私」もコモンズも物理的な場もヴァーチャルな場も、そういう社会の仕組みや構造を整理する言葉や概念が整理されずにガッチャンコされることを期待しています。でもそんなことをしたら実験場どころか修羅場になってしまうでしょうか。もうそれは、現代社会で私たちが直面している分断そのものですけれど、せいぜい砂場や公園での子どもたちのケンカやすれ違い程度であればマルっとおさまるような気もします。たぶんその理由は“遊び”であることが場の均衡を保ってくれるからです。それぞれの役割やルールが共有された“遊び”の中でガッチャンコを繰り返すことが、いろいろ壊れ始めているこの国では民主主義のレッスンになるかもしれません。

