書き手:戸舘正史
社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修/アートマネジメント・文化政策
わたしたちが互いに「アート」を語るとき、そこで語られる「アート」の概念がいつも同じ意味合いで共有されているとは限りません。でもなんとなく互いに発する「アート」に齟齬を感じつつあっても折り合いをつけている場面がよくあります。もちろん語ることが「アート」でなくても「自然」でも「政治」でも「福祉」でも同じようなことはあるはずです。しかしとりわけ「アート」を語るときは、互いに意味しているところが少々すれ違っていても対話が成立してしまうことがあるような気がします。たぶん「アート」なる言葉がそもそも広義でありながらも、ポジティブな価値観として一般的に定着していることが、なんとなく対話を成立させている要因かもしれません。
5月20日に開催したイマバリ・パラビエンナーレのトークイベント『地域社会でアーティストができること 多様性と共生を考える』においては「アート」は創造的な発想やユニークな視点として語られながらも、進行を務めた私は少し居心地の悪さを感じていました。そもそも私自身が現代美術の文脈における作品やプロジェクトとしての「アート」を念頭にしているときもあれば、社会的なさまざまな領域に貢献する技術的な手段としての「アート」を語っていることもあるし、あるいは名付け難いよくわからないけれどユニークな現象を「アート」と呼んでいるときもあるのです。

日本においては2000年前後から「アート」が多様な社会的実践と重なり合うようにして俎上に上がることが多くなっています。その背景を主に三つくらいに整理できるのではないかと私は考えています。
一つめは、ソーシャリーエンゲージドアート(社会関与型芸術)や関係性の美学と言われるような社会との関わりの中で生まれる「アート」が現代美術における概念として日本でも広まっていったことがあります。このことによって地域や他者とのコミュニケーションに重きを置く「アート」が改めて評価されていきます。
二つめは、地域芸術祭の隆盛です。過疎地域の活性化やまちづくりの手段として芸術祭やアートプロジェクトが公金を使って催されるようになっていきます。
三つめは、文化芸術に関する国の法律や制度の整備です。特に2001年に制定されその後改正された文化芸術基本法では、文化芸術を教育や福祉、あるいは観光や産業と連携させ活用していくことを国は自治体等に求めているのです。

こうした背景もあって「アート」はいまや社会的な実践としての何かとして語られる場面が多くなりました。「アート」は何かいいことをしてくれる何か、のような極めて曖昧な言葉として人口に膾炙している感もあります。しかし言うまでもなく「アート」を冠していればOKということではないでしょう。場合によっては「アート」を冠し先鋭化することが誰かを排除し分断を生むこともあり得ます。その営みや、その行為、その発想やその価値観が、凝り固まってしまった社会のあり様をほぐし、時には誰かの救いとなる実践であれば、それは「アート」でもなくてもどっちでもよいという考え方もあるでしょう。
それでも私たちが「アート」に頼る理由はあるのでしょうか。もしかしたら「アート」という何かだからこそ持っている曖昧性は、強い言葉で断定したり、決めつけたりすることが目に余る世の中にあって、言い淀んだり、逡巡したりすることを肯定してくれるのかもしれません。
曖昧な日本という国に暮らす人たちの曖昧な「アート」も捨てたものではありません。


