戸舘正史
社会福祉法人来島会アートプロジェクト監修/アートマネジメント・文化政策
今春、2週間ほどドイツのベルリンに滞在していました。そのときのエピソードをご紹介させてください。
ある民間のアートセンターのエントランスでパンフレットを物色していたら「おーい、にいちゃん」というような声が背後から掛かりました。
振り返ると電動車椅子に乗った大柄な男性が入口の段差に引っかかっていました。この建物はかつての集合住宅をリノベーションしたところで、物理的なユニバーサルデザインがまるで施されていない施設です。
「これはたいへん」とすぐに私は彼のもとへ行きました。
彼が「Pull!Pull!」と言ってきます。私が重たいレバーのようなものを引っ張り上げると、なんとか段差を超えることができた彼は「ダンケ〜」と御礼もそこそこにチケット売り場へサクッと行ってしまいました。そしてこの過程の一部始終をアートセンターのスタッフはニコニコ見ているのでした。
なんということもないあっけない時間で、私自身も「よかったよかった」と思いはしたものの、特段の達成感もケア感もありません。それは、向かい風で乱れた髪を撫でるくらいの反射的な反応でしかなく、いまこうして原稿を書くにあたって、ちょっと特別なこととして改めて記憶から召喚した程度の出来事です。
それにしても電動車椅子の彼がこのアートセンターで展示を観るということは、かなり前途多難な気がしますが、彼もきっとなんとかするのだろうし、まわりの誰かもなんとかするような気がするのです。気がするだけですけど。
そういえばこんなこともありました。
300人ほどの観客の中に、更に100人くらいの合唱団が混ざり、その大群のなかでブラームスの有名な楽曲『ドイツ・レクイエム』が演奏される公演がありました(サシャ・ヴァルツ振付、ヨッヘン・ザンディッ匕構成演出『ヒューマンレクイエム』)。
会場は客席も何も無い体育館くらいの平土間の大きな空間です。鑑賞するポジションは決まっておらず、観客も演奏者も絶えず流動的に動きながら上演は続きます。合唱団は演奏中に様々な振付けやモブ的な動きをします。
よって、その動きや状況に応じて観客は合唱団の邪魔にならないように動かないといけません。しかも立錐の余地は僅かです。観客はお互いに気配を察し時には目配せをしながら、なんとなく即妙に、自分の身体を空間に合わせていきます。
必ずしも、身体的に心地よい状態が持続されるわけではないのですが、肩と肩がぶつかったり小さなハレーションがありながらも、なんとなく、一緒に空間が作られていく体験はとても興味深いものでした。

おそらく日本でこの作品を上演するとした場合、主催者は観客の導線をコントロールし、不確定要素を可能な限り排除するマネジメントが行われると想像します。加えて、観客もそれを求めるような気がします。
出会い頭に何かコトが起きたりしたら大変、ということでしょう。観客からのクレームも事前に封じないといけない、ということでしょう。
当事者に任せるなんていう雑なことは、殊にこのようなパブリックな設えの中ではきっと許されません。建物の入口に段差があるなんてとんでもない!もし困っている人がいたらマニュアル通りにスタッフが飛んでくるのです。
決められた予防線を張ることも大切なことです。
でも、ベルリンでの当事者任せのパブリックな現場にあった緩いクリエイティビティにも、私はちょっと惹かれたりします。
